世界が綺麗であるように

知性と感性の及ぶ限りいろいろ書いていきたいと思います

イスとwebサービスのデザイン的差異

【イス】

 ・サイズを指定できる

 ・視覚、聴覚以外に、主に触覚を用いることができる

 ・体力消費がすくないものが求められる

 

【webサービス】

 ・カーソルがある(場合がある)

 ・電力が供給されているため、変化させやすい

 ・構造化できる

 ・オンラインである

 ・多くを同時に扱える(スペース消費に乏しい)

 ・楽しさを求められる

 

【共通】

 ・同オブジェクトに対して、ユーザのポジションが可変

 ・心地よさ、便利さを求められる

 

 書いていて思ったのだけれど、カーソルは身体の延長だ。移動とクリック状態が可能。クリックしていない状態でカーソルを動かすのは、どの商品を買おうか迷って指を空中でふらふらさせているのに似ている。商品を選ぶときに使うのは指だけじゃないから、カーソルのようなインターフェースはもっと発展させられるんじゃないかな。

人として生きることについて

 どういうふうに生きれば自己の身体と精神が承認する生を表現できるだろうか。

 感情は、ひどく身体的で動物的なものだ。感情を主として生きるのは知性ある人としての生とは呼べないんじゃないかな。知性を主として生きるのは一見よさそうにみえるけど、知性は感情と同じく分泌系と神経系と外界がつくったものだ。人としての生に知性が必要そうにみえるのは、知性それ自体でなく、知性の成果が人に必要だからだ。形而上学

 形而上のことで自分に与えられているものはなんだろう。時間と空間、存在と関係、それと論理。これらだけで人としての生き方を導きだせるだろうか? 自分にはそれは難しいように思える。

 生きるには意思か規定が必要で、意思を導くことができないなら(できないように思う)、規定するしかないだろう。意思なき規定は偶然の産物でしかありえないから、確率の生を生きることになる。それは、すこし悲しいように思う。

美とは何だろう?

 動物は、どんなものを見たときに、なぜ美しさを感じるのだろう?

 大半の動物にとって美しいと思えるものがあるとするなら、その美しさをまとうことは生存競争において有利になるだろう。でも、そんな美しさがなぜあるのだろう?

 

 生物の進化によって普遍的な美が生まれたなら、それは、生物にとって生きやすい環境の美しさだろう。森の美。

 でも生き抜くことが難しいような場所に対しても美しいと思えることがある。砂漠の美。

 

死に近い美は、それが生を示唆するから美しいと思えるんだろうか? それとも生命は死を求めるんだろうか?

 

温かみのある交流サイト

 長年使っていた細々としたサイトが消えていくにつれて、ネットの世界がどんどん冷たくなっていくように感じる。

 流行りのSNSは人と人とが交流するには巨大すぎて、古い時代にあった、趣味のサイトの隅にある掲示板のような、コアユーザ10人ぐらいがずっと交流を続けてる感じがない。小さい運営でないから閉鎖する心配をあまりしなくていいけれど、リアル世界の関係が持ち上がってきてることが多くてやりにくい。

 小さいコミュニティーのなかで深く交流して、サイト自体は大きくて、いろんな人がいて、でも小さいコミュニティーからでなくていいような、そんなサイトを作りたい。